鶴来別院のあゆみ

鶴来地区は古代〜中世は福井、岐阜、石川にまたがる白山信仰の中心地として、そして白山比咩神社、金剱宮の門前町として栄えていました。

さらに、手取扇状地の扇の要の部分に位置し、手取川の氾濫の影響が少なく、安定した土地として、福井(大野・勝山)との物流の拠点として宿場町の役目も果たしていました。

門前町と宿場町、2つの側面をもつ町であったと考えられています。石川県の最重要地域の一つであったと言えるのではないでしょうか。

室町時代末期は蓮如上人の門弟たちよって加賀の国は百姓の持ちたる国(一向一揆)としてありました。その時代は民主主義の萌芽であるとも言われています。

石川県の最重要地域の一つであるからか、鶴来清沢町に蓮如上人の七男蓮悟が清沢坊を創建されました、蓮悟の後は蓮如上人十男の実悟が入り、本願寺から願得寺の寺号を許されました。清沢願得寺は、石川郡の「御山」として郡内一円の門徒の結集の中核になったのです。

しかし、1531年(享禄4年)、「享禄の錯乱」といわれる一向一揆の内紛によって焼き討ちされ廃絶しました。

別院の寺伝によれば、清沢坊が廃絶した後、天文年間(1532〜1555)に大御坊惣道場が建立されたと伝えられています。

惣道場とは、村落全体の門徒の 総意により共同で維持運営される念仏聞法の道場をいいます。その後、江戸時代を通じて鶴来や石川郡や白山麓における聞法の拠点として護持されてきました。

その後石川郡の500年の念仏信仰の賜物として創建されたのが鶴来別院です。

1880年(明治13年)4月、金沢別院鶴来支院を公称することになったのを契機として当地の門徒によって新たな本堂建立の願いがおこされ、翌年3月には仮御堂が建てられました。
鶴来地域の門徒の熱い懇念によって1891年(明治24年)10月に新本堂の建築が起工され、1899年(明治32年)に完成しました。
1903年(明治36年)11月、金沢別院より独立して鶴来別院となりました。

さらに詳しい鶴来別院の歴史と彰如上人について
伽藍について
仏具について
伽藍を護る霊獣(井波彫刻について)
親鸞聖人廟所
遠慶宿縁