さらに詳しい鶴来別院の歴史と彰如上人について

1.鶴来別院が創建されるまでの鶴来地区の真宗の様子

鶴来別院は明治時代に創建されましたが、それ以前に鶴来地区に真宗の教えが伝えられた時代は、明確になっていません。最も有名な時代が「加賀の一向一揆」の時代だと言えます。加賀の一向一揆で有名な言葉が「百姓の持ちたる国」かと思います。これは諸説ありますが、この時代に鶴来清沢に住まわれていた実悟上人(蓮如上人ご子息)が書かれた書物にある「百姓の持ちたる国のようになり候ことに候」が少し省略されて伝わったようです。このことから、一向一揆の時代には鶴来地区に蓮如上人のご子息が住まわれていたことがわかります。

鶴来朝日町から鶴来清沢町にかけて『清沢願得寺(きよさわがんとくじ)』という寺院がありました。現在は、鶴来朝日町にその遺構として「土塀」がのこり、鐘楼があったという場所が残されています。鶴来朝日町周辺に上院、鶴来清沢町周辺に下院と呼ばれる建物があったようです。また、その北に金劔宮の上院と下院と呼ばれる建物があったようです。 現在の金劍宮の周辺に上院、現在の鳥居が建つ鶴来知守町から鶴来日詰町周辺に下院があったようです。

では、鶴来地区の様子を時代別に見てみようと思います。

2.一向一揆の時代以前の鶴来地区の様子

鶴来地区は元々、金劔宮や白山比咩神社とその神護寺(神仏習合の時代には、神社とお寺が一緒にあり、主に天台宗の寺院が多かったようです)があり、白山信仰の地域でした。その鶴来地区には、どのような形で浄土真宗が伝わってきていたかは明確にはわかりませんが、親鸞聖人のお弟子さんが伝えた派(高田派・讃(三)門徒派・佛光寺派など)の教えが伝わっていたようです。福井県には、高田派専修寺(現在は三重県)や讃(三)門徒派などの本山がありました。鶴来地区もその影響があったと考えられます。また、本願寺派(当時は東・西の区分けはない)としては、福井県の本覚寺や超勝寺の影響もあったようです。本覚寺と超勝寺は、かなり早くから、石川県へ進出していたようです。

明徳元(1390) 年に本願寺(当時は東・西の区分けはない)第 5 代門主の綽如上人が富山県に瑞泉寺を創建され、嘉吉 2(1442) 年に第 8 代門主蓮如上人の叔父・如乗が金沢二又に本泉寺を創建し、文明 3(1471)年に蓮如上人が福井県吉崎へ赴き約 4 年滞在しました。 その後、蓮如上人のご子息の二男・蓮乗上人、三男・蓮鋼上人、四男・蓮誓上人、七男・蓮悟上人らが、加賀三ケ寺と呼ばれる若松本泉寺(嘉吉 2(1442)年に如乗が創建。その後蓮乗上人と蓮悟上人が入寺)・波佐谷松岡寺(文明 10(1478)年、蓮鋼上人が波佐谷坊創建。

永正 14 (1517) 年、 松岡寺公称)・山田光教寺(文明年間に蓮如上人が創建。文明 18 (1486)年、 蓮誓上人が入寺)を中心に、親鸞聖人の血脈法脈を伝える本願寺の教えを石川県に伝えていきました。鶴来地区には、蓮如上人のご子息の十男・実悟上人が清沢願得寺を創建し、永正 5 (1513)年から約 19 年間、鶴来でお過ごしになりました。

以下随時掲載予定

3.加賀の一向一揆の様子(1479 年の文明の一揆・1488 年の長享の一揆)

4.加賀の一向一揆の様子(1531 年の享禄の錯乱)

5.加賀の一向一揆の様子(享禄の錯乱後の加賀三ケ寺・実悟上人)

6.加賀の一向一揆の様子(1546 年の尾山御坊・1582 年の鳥越上の陥落)

7.江戸時代の鶴来地区の様子

8.鶴来別院の創建

さらに詳しい鶴来別院の歴史と彰如上人について
伽藍について
仏具について
伽藍を護る霊獣(井波彫刻について)
親鸞聖人廟所
遠慶宿縁